2002/04/09 (Tue)
愚痴ってちゃ駄目なんだけど。
ちと愚痴でも書いて見る。
数学屋、物理屋、哲学屋。
似てるようで似ていないというなかなか素晴らしい人種である(笑)
おいらはどちらかと言うと正真正銘の物理屋さんになってしまう。
さて、この3つの違いはなにか?と言うと
ゲーデル・ショックによるヒルベルト・プログラムの破綻により
ニュートン物理学の絶対性に存在意義を見いだせなくなった近代数学。
「支配出来ると言う前提が有れば支配を語る事が出来る」のが数学屋。
「自然現象を支配しようと試みる」(形而下的なモノを論理記述する)のが物理屋。
「人を幸せにする指標を見いだす」(形而上的なモノの論理記述する)のが哲学屋。
詩的な数学屋と散文的な物理屋&哲学屋とでも言おうか?
んで、近代物理の問題点というのは、肝心なCoreを近代数学で置き換えた所が問題なわけ。
本来「自然現象を支配しようと試みる」筈の物理が、いつの間にか
「支配出来ると言う前提が有れば支配を語る」物理に成り果てているということ。
いつの間に詩的な物理になったのか?
古典数学と近代数学の違いはどこかと言うと、
ニュートンと、ライプニッツあたりではないかなと。
前者は「速度を微分すると加速度になる」、後者は「t で微分すると…」と言う発想の違いか。
近代数学は言うまでもなくライプニッツ記号法に基礎を置く。
ただ、彼の計算記述は、限りなく「俺が正しいといってるんだ、正しいに決まってる」である。
ライプニッツだからこそ許されるのであって、凡人には許されていない。
ニュートンの方は、古典物理的記号法であり、トリッキーな数式変形は
一見鮮やかだが、実はその場しのぎの塊である。
こちらも凡人がやると前者と同じであるが・・・
言いかたは悪いが「行き当りばったり」。しかし根源的に最も人間的だろう。
近代数学で物理が置き換えられた理由。それは知識の大量生産に尽きる。
「自然現象を支配しようと試みる」より、「支配出来ると言う前提が有れば支配を語る」方が簡単なのだから。
教えることが簡単と言うより、評価する事が簡単だから。
正しい形で、物理を愛している人間としては、
現在の近代数学で置き換えられた物理というのは
堪えがたいモノが有るわけだが、近代数学に馴れた人には
全く理解してもらえないのが哀しい所だと。
と言うことで今日の愚痴は終わり。
#ちといいこと有った♪